コロナツーリングバッグとは



コロナツーリングバッグ(CORONA TOURING BAG)は、1957年(昭和32年)にコロナ産業株式会社が世界で初めて作ったオートバイ用タンクバッグです。


元々、コロナ産業は戦後間もない1940年代後半に、創業者・下崎鶴之助がカメラメーカーとして起業しました。

カメラメーカーと言っても、レンズはレンズ屋から、ボディは専門のプレス屋から、シャッターはシャッター屋からパーツを仕入れて組み立てるアッセンブリーで、四畳半の部屋を借りてドライバー1本で作ることが出来たので、戦後は所謂「四畳半カメラ」のメーカーが複数存在していてました。現在で言うなら、パーツを組み立てただけのパソコンメーカーと似てるかもしれません。


↑第1回 全日本自動車ショウ(現・東京モーターショー)で、愛車と同じ大好きなアドラーを見つめる若かりし頃の下崎。昭和29年(1954年)撮影

同じ時期、オートバイ産業のほうでも、自転車屋や町工場どが自転車にモーターを付けて販売していて、良く売れるという理由だけで、その場しのぎの原動機付き自転車が数多く作られ販売されていました。戦後間もない日本は、どの業界も多かれ少なかれこんな状態だったとの事です。

朝鮮戦争の頃は、この程度の製品でも飛ぶように売れたのですが、昭和30年代に入って鍋底景気・デフレ不況が始まると、四畳半メーカーは次々と倒産・廃業し始めました。

※下崎とアドラー 昭和28年撮影
バイクでカメラの資材を運んでいました。

当時のオートバイはビジネスのツールとして使用されていましたが、コロナ産業の創業者・下崎は、当時としては大変珍しい「趣味」としてオートバイに乗ってツーリングを楽しんでいました。下崎はカメラや弁当などをオートバイの荷台に括り付けて各地を走り回っていました。


※上の写真は昭和30年に、下崎(アドラー)と友人(NSU)の2台で乗鞍へツーリングに行った時の様子。

この後、世界初のタンクバッグが誕生するきっかけとなった事件が起こります。



下崎のアドラーのキャリアに積んだ荷物(カメラなど)を、どこかでそっくり落としてしまいました。気付くのが遅く、荷物が見つかることはありませんでした。

帰宅後、ショックを受けた下崎はタンクにバッグを括り付ける方法を考案しました。これならもし万が一荷物が落ちてもすぐ気付くはず。

たまたま下請けでカメラケースを作っている業者と取引があって、この業者に頼んで革製カバンにベルトを付けてもらい、これをオートバイのタンクに括り付け、コロナツーリングバッグの原型が出来上がりました。



このタンクバッグは非常に便利でしたが、この時点ではこれを商売にするつもりはなく、下崎の個人用として使用していました。

しかし、このバッグを見たバイク仲間たちから、俺も欲しいと殺到して、まとめて何個か作ってもすぐ完売して、丁度この頃はカメラの商売も上手くいってなかった事もあり、それならこのタンクバッグを製品化しよう!と動き出しました。まだ、全世界でタンクバッグが存在しない時期でした。



どうせ作るなら、バイク乗りが使いやすい物を作ろうと思い、タンクから簡単にバッグを取り外せるように台座とバッグを分離脱着式にしたり、地図を入れられるマップケースを付けて、しかも雨対策としてバッグ上部全面をビニールで覆うデザインとして、バッグの素材も雨対策のため本牛革からビニール製に変更してレインカバーを付属しました。

ここで初めて製品として誕生したコロナツーリングバッグは、この時点で既に完成度の高い物として出来上がっていました。昭和32年の事でした。
尚、現行モデルも基本設計は初期モデルとほぼ変わらないデザインで製造しています。



コロナ産業は私(コロナ産業三代目代表 戸塚)が昭和32年(1957年)創業と謳っておりますが、厳密に言いますとコロナツーリングバッグが誕生したのが昭和32年であり、カメラメーカー時代のコロナ産業は戦後間もなく創業したので、カメラ時代もカウントすると昭和32年よりもっと古い会社になります。


昭和32年にコロナツーリングバッグが完成しましたが、さて、どうやって売ろうか?
でもまあ、友達から大好評だったので あっという間に口コミで広がってヒット商品になるはず・・・
と思ったら甘かったようで、まわりの友達が買ってくれたあとの販売は苦労したそうです。

そこで、明治大学を卒業したばかりの若手社員にコロナを持たせて、オートバイが置いてある家を一軒一軒まわって訪問販売をさせました。しかし、この販売方法も上手くいかず・・・。
因みにこの若手社員こそが、のちに二代目コロナ産業の代表となる阿部浩です。
当時のことを、阿部(前)社長は「全然売れないから参ったよ。でも社長は頑張って売ってこいって言うし、嫌になっちゃったよ」と私に話してくれました(笑)


次に、オートバイ専門誌に広告を出してみることにしました。↑は「オートバイ」誌(モーターマガジン社)。


※1958年「オートバイ」誌 特別増大号に広告を打ちました。まだこの頃は、東光産業株式会社を通して販売していました。

この広告が転機となり、全国のバイクショップなどから沢山の問い合わせが届きました。
その後、コロナツーリングバッグは順調に売れ始めました。


↑アドラーに装着されたコロナツーリングバッグ最初期モデル。既に現行モデルの原型が出来上がってました。


※↑近所の商店主たちとツーリング。みんなコロナツーリングバッグを装着してます。右端が下崎。昭和30年代に撮影。

最初に売り出したコロナツーリングバッグは3タイプでした。サイズの大きいスタンダード型と、集金ブクロ程度の使い手を想定した小さめのビジネス型、ラグビーボールの形をしたスポーツタイプの三種類です。
昭和30年代は、オートバイはビジネスで使うのが普通の時代でしたので、コロナツーリングバッグも仕事で使用される事が多かったようです。
スタンダード型の価格が1500円でしたので、当時の貨幣価値で換算すると決して安い物ではありませんでした。


※↑通称ラグビーボールと言われたスポーツタイプと女性モデル


順調に売れてたとは言え、いつまで経っても商売が楽にならないので、経営状態を見直したところ・・・
元々、製造部門をレインコートを製造している友人にお願いして、利益を折半する約束だったのですが、友人に騙されて利益の3分の2を取られてる事が判明しました。
結局、畑違いのところからスタートして、材料ひとつのことも知らなかったからこんな事になったのだ、と諦め、その後に下崎は独立してコロナツーリングバッグを作り始めました。


※↑1961年2月号 オートバイ誌に掲載された広告。バッグ以外にも、リアキャリアやクラッチレバーのゴムカバーなど様々なオートバイ用品を製造販売し、パテントを取得した物も複数ありました。

下崎は発明家で、コロナ産業をオートバイ用品の総合メーカーにしたくて、常に新しいアイディアを産み出して新製品をリリースしていました。当時はまだ、オートバイ専用の用品などなく、グローブにしてもウェアやブーツにしてもオートバイ用ではなく普通の物を使用していました。やっと小峰オートセンターがオートバイ用の用品を作り始めたり、アライがヘルメットを作り出した頃の時代です。

発明の例として、こんな物もありました。


下崎は昭和34年に一風変わったゴーグルを考案しています。これは、ゴーグルの上部にサンバイザーが付いていて、その付け根にスリットが入ってるというもの。前方から当たる風を流整して、スリットから上に逃がすという仕組みで、雨の時でも水滴がガラス面を覆わないようになっています。
SUZUKIから「オートバイの景品にゴーグルを付けたいので、上手いものがあれば買い取るよ」と言われたのがきっかけで作りました。時速120キロ位までなら、雨の中を走っても大丈夫だったとのこと。結局、景品として5万個を出荷しました。

他にも・・・あ、いや、これは書かないほうが良いのかな!?
でも、昭和のオートバイ文化を残す記録として書きます。決してカワサキと喧嘩する意図はありません(汗)


上の画像は、下崎が考案したクラッチレバーのゴムカバーです。先に載せた広告の画像にも掲載されてます。今でこそ当たり前のように見掛けるこのカバーは、実は弊社が考案して特許も取得して、昭和34年から「ステーキャップ」という名称で販売してました。「世界初」はタンクバッグだけではありません。
カワサキから「サンプルが欲しい」と言われて、見本をカワサキにお渡しして、技術的なことも教えたのですが、そのうちにカワサキがこのゴムカバーを使ったオートバイの販売を始めました。まだパテントの権利が残ってた時期です。
しかし、大きな会社を相手に裁判をやっても費用の問題もあるので、仕方なく黙認する事にしたところ、他のメーカーもゴムカバーを次々と付け出しました。下崎は、こんな事になるなら、クレームを入れておけば良かったと後悔しました。

他にも数々のトラブルを抱えながら商売を続けていると、下崎はオートバイ用品の総合メーカーを作る野望は諦め、タンクバッグの専門メーカーへと進む決意をしました。
会社を大きくすると、売上げが好調のときは良いが、悪くなったときは社員や取引先などみんなに迷惑を掛ける事になるし、忙しくなると大好きな釣りやツーリングへ行く時間も無くなる、という理由もあったそうです。


コロナツーリングバッグのパンフをいくつかご紹介します。



コロナのモデルは、近所では可愛いと評判の女性にお願いしてました。
しかし、「身近にいたら可愛い娘さんだけど、印刷物にするとやはりプロのモデルさんより劣るよね」との事(苦笑)事実かもしれませんが失礼な話です。


※下崎は様々なオートバイを乗り継ぎました。↑写真はラビット時代。左から三番目が下崎。


↑1967年 モーターサイクリスト誌に掲載されたコロナ産業の広告。


↑小峰オートセンターの広告。コロナツーリングバッグの販売もしてました。1967年 モーターサイクリスト誌掲載。


昭和40年代に入り、オートバイが実用から趣味の乗り物に変わってゆくに連れて、コロナツーリングバッグの需要も伸び続けました。
そのうち輸出の話も出てきて、アメリカやヨーロッパでもコロナツーリングバッグを販売し始めて、昭和47年~52年頃は内外合わせて15万個~18万個を出荷していました。


↑はコロナツーリングバッグを海外へ輸出していた頃に、ローリングストーンズのミック・ジャガーさんがコロナを購入して愛用してくれていた画像です。
恐らく、フランス・ニースにコロナの販売拠点があった時代だと思います。ミック・ジャガーさんもまだお若いので(^^;


↑輸出仕様のスポーツタイプ(ラグビーボール型)昭和47年撮影


↑左が下崎、右が阿部。1982年撮影。


↑左が阿部、右が下崎。1982年撮影。


↑コロナ産業の営業所内の様子。手作業で検品や梱包などをやってました。当然まだAmazonもなく、通信販売は葉書や電話で受けた注文を一つ一つ発送してました。


↑80年代のパンフ。過去、素人モデルばかり起用してましたが、こちらはプロのモデルさん。しかし、ギャラがとても高かったとのこと。

昭和57年~58年頃まで、タンクバッグはコロナツーリングバッグしかありませんでした。それ以降、たちどころにメーカーが10社以上に増えて、そうなると粗悪品のバッグが多く出回るようになりました。
コロナとそっくりな偽物も多く、見た目がほぼ同じで粗悪な作りのバッグを安価で販売するメーカーもありました。でもお客様は、見た目だけで品質の良し悪しは区別が付かず、結局は安かろう悪かろうのバッグばかりが売れていく時代になりました。

コロナ産業二代目代表の阿部は、上野・光輪モータースの若林社長や太洋モータースの石神社長たちと温泉旅行へ行く仲でしたが、光輪の若林社長がコロナの偽物を売り続けたので、友達だけど訴えた、と話してくれました。パチモンは上野あるある話ですが(^^;


せっかく良いバッグを作っても、安物ばかりが売れる事に嫌気がさして、昭和62年に下崎はコロナツーリングバッグの製造販売をやめようと決意します。
自らは引退して、社員の要望で会社は残して二代目代表に阿部が就任しましたが、それでも経営が悪化して平成元年(1989年)にコロナ産業は倒産しました。


その後、コロナツーリングバッグの名はしばらく残り、多くの在庫を抱えたままの状態であったため、倒産後もバッグの販売は続いてました。
倒産後、かなりの年数が経った時期でも東京堂など老舗のバイク用品店で、新品のコロナツーリングバッグを購入できました。そのため、実は既にコロナ産業が平成元年に倒産していた事を知らなかったユーザー様も多かったはずです。
2000年以降も、まだ新品でコロナを購入する事が出来たという報告も入ってます。
最後は、阿部の自宅に直接行って、押入れに保管してあった残りの在庫を買い取ったお客様もいました。押入れの在庫も無くなったとき、コロナツーリングバッグの歴史は静かに膜を降ろしました。
長い間、コロナツーリングバッグを愛してくださり、本当に有り難うございました。おわり



最後にオマケです。お客様から送って頂いた懐かしい写真をいくつかご紹介します。
当時は、すべてのライダーが、と言ったら言い過ぎですが、皆さんがコロナツーリングバッグを愛用してくれてました。1970年代~80年代が中心の画像です。














あ、ちょっと待ってください!
惜しまれつつ消えていったコロナツーリングバッグを、私たちコロナ産業プロダクツが完全復活させました!


↑2016年撮影。阿部前代表の自宅マンション近くにて。


↑復刻するため打ち合わせ中。サンプルを作る段階で何度も話し合い。2016年7月撮影。
復刻後の活動内容は、このホームページのコロナ通信や、弊社Instagramなどにアップしてますので、是非ご覧ください。
私、三代目コロナ産業代表・戸塚のことは、ホームページのプロフィール欄
https://coronasangyo.ocnk.net/profile
に少し書きました。

たかがタンクバッグかもしれませんが、創業者の(故)下崎や二代目代表の阿部たちが、紆余曲折ありながらも真剣にコロナツーリングバッグを育ててきました。そして、その歴史を私たちが引き継ぎました。
私たちは、先人たちの偉業をリスペクトしてコロナツーリングバッグを守り、これからも世界中のライダーさんたちに愛されるよう、人生を賭けて より良いモノ作りが出来るように努力いたします。
今後とも、コロナツーリングバッグをご愛用宜しくお願い致します。
ここまで纏めるのに時間が掛かってしまいましたが、コロナツーリングバッグの歴史を知っていただき、そして長文を読んでいただき本当に有り難うございました。



コロナ産業プロダクツ 代表 戸塚健一
google-site-verification: googlec22b059397c24b61.html Your SEO optimized title page contents